小杉武久さん(こすぎ・たけひさ=音楽家)12日、食道がんで死去、80歳。葬儀は近親者で営む。
小杉武久さん死去 / 朝日新聞デジタル
東京芸大在学中に即興演奏グループを結成し、60年代、米ニューヨークの前衛芸術家集団「フルクサス」によって作品が紹介される。77年から米のマース・カニングハム舞踊団の専属音楽家を務めた。
音楽家の小杉武久さんが亡くなった。ショックというか、とても残念だ。なぜなら、一度も会うことができなかったから。
名前のBの由来であるアーティスト 風倉 匠
実は、この間、自分のプロフィールを更新したときに、私がアートの世界で活動するきっかけになった風倉 匠のことを加えた。B の名前の由来となったアーティストである。
生前に風倉さんは、アメリカに行きたいと言っていて、「ナムさんと小杉に会って、フィラデルフィアにデュシャンの巡礼に行きたい」とよく話していたのだが、肺を患ってしまった関係で 飛行機に乗れなくなってしまい叶わなかった。
風倉さんが再度入院したようだとは聞いていた。九州から東京に仕事で来ていた共通の友人と食事をしたさい、風倉さんに会いに行った方がいいよと勧められた。二人目の父親が亡くなってしまうかもしれないという事実から逃げていた私を、その友人は前に押してくれたのだ。
翌日、日帰りで九州に向かう。
病院の場所は友人が教えてくれていた。
受付で風倉さんの本名を告げると、風倉さんの奥様がでてきた。
私の顔を見て微笑んで。
「やっぱりきたわね。連絡してなくても会いにくる人はくると思ってたの。昨日は小杉さんがきてくれたのよ。連絡してなかったのに、会いにこないとならない気がしたんですって。あなたと小杉さんはくるだろうなと思っていたの。だから良かった。」
風倉さんも交えて、1時間ぐらいだろうか、いろいろな話をした。(風倉さんは、もう話せなくなっていて、あーと返事をすることしかできなかったが、、)
帰りの飛行機の中、風倉さんが、私の父親が死んだときに言っていたことを思いだしていた。
残されたものは生きなければならない。
見舞いに伺った2日後に、風倉さんは亡くなった。
おくやみ記事をとっておきたくて、新聞をコンビニで買った。
風倉 匠さん(かざくら・しょう=前衛芸術家)が13日、肺がんで死去、71歳。葬儀は近親者のみで行う。
前衛芸術家の風倉匠さん死去 / 朝日新聞デジタル
大分市出身。60年代に注目された前衛芸術集団「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」に参加。風船やピアノを使った過激なパフォーマンスで知られた。
私もダンス作品を作っているので、小杉さんとどこかで会うことがあるのではないかと思っていたが、チャンスは訪れなかった。
音楽ではない
展示しきれない「前衛」たちの残骸。another story「Tokyo 1955–1970: A New Avant-Garde」
音のコンサート
真っ黒いビニールの袋の中にすっぽり入って袋の口をしめ、中で身動きし、時々袋の口をあけて指、手先、腕などを出すことを繰り返す。1時間以上、あるいは一晩中、それを繰り返す。音はないが、これは室内楽の演奏なのだった。
聴衆は袋の周りにすわって、袋の動きを見ている。袋はときに、周辺に移動して動いたりした。作家は、風倉匠だったか、オノ・ヨーコだったか。
小杉や刀根康尚などの作曲家たちは、「20世紀音楽」というグループを作り、こうしたゲリラ的スタイルで、自由な演奏を繰り返していた。聴衆がいようといまいと、ハプニングと演奏の間のような自由な表現と音の表現を何時間でも続けていた。
小杉のヴァイオリン演奏は、スタイルも音色もまるでノコギリをひいているように素朴で、それが人をひきつけてやまなかった。小杉は、タージマハール旅行団という4人ほどのグループを作り、ヨーロッパ経由で演奏旅行をしながら、インドのタージマハールへ行くはずだった。ほんとに行き着いたかどうか知らない。
しかし、このグループの無限に広がるサウンドを聴いていると、全身が音に溶け込むようだった。 寒い大晦日の夜、由比ケ浜の海岸で、空がうっすら明らむまで演奏した時の感動は忘れない。
音楽家の小杉武久さんが亡くなった。ショックというか、とても残念だ。なぜなら、一度も会うことができなかったから。