KOMMUNIKOLOGIE

人間は、コミュニケーションの用具 (たとえば言葉) の使い方を学ばないかぎり、馬鹿 (イディオッオ。もともとは<私人>を意味する) である。馬鹿であること、人間として不完全であることは、技能がないということだ。むろん、<自然的な>人間関係というものもある (乳児と母親の関係・性交中の関係など)。それこそが最も本源的で基本的なコミュニケーション形式だ、と言ってもよい。しかし、それは、人間なればこそのコミュニケーションだというわけではないし、それ自体大幅に技巧的なものになってしまっている (<文化の影響を受けて>いる)。

人文学としてのコミュニケーション学 / テクノコードの誕生 / ヴィレム・フルッサー著・村上淳一訳

ヴィレム・フルッサーの「テクノコードの誕生」を読み始めた。最初の章でブログのことを思い浮かべたのでブログに書いてみる。ここで言われる技能には、ブログで発信するコミュニケーションが含まれていると思ったのだ。

技能を使ったコミュニケーションと「乳児と母親の関係・性交中の関係」との対比も面白い。

しかし、フルッサー教授、冒頭から「馬鹿」を連発、この先がどうなるのかハラハラしてくる。

さて、「人間こそのコミュニケーション」とはなんであるのか。

読み進めると書いてあるのかどうか分からないが、考えてみると面白そうだ。写真を使うコミュニケーションは、人間こそのという気がする。もちろん、ブログもそうなるのだろう。

そして、そもそも、なんで人間だけ、このような特殊な生き物であるのか、という疑問がまた湧き上がってきている。

何故か、自分が書いた「フルッサー教授」という聞こえかたが気になったので、ググってみると、渡辺真也さんのブログ (というか twitter のまとめ) がでてきた。

交通事故でお亡くなりになった哲学者ヴィレム・フルッサー教授の追悼イベントが、UdK学内にあるフルッサー・アーカイブにて開かれた。死後しばらく経った今でも、先生や学生たちが自主的に追悼イベントを開いているとは、フルッサー教授もきっと天国で喜んでくれているに違いない。

2011年 12月11日(日)のつぶやき / Eur-Asia by 渡辺真也

そこには、もう一人の気になっている人物である南方についても書いてあった。

昨日、Siegfried Zielinski教授にお会いしてきた。まさに知の巨人で、圧倒された。ジエリンスキー教授がおっしゃった「南方の、それぞれのモダニティ」という言葉が、印象的だった。

2011年 12月11日(日)のつぶやき / Eur-Asia by 渡辺真也

昨日、渡辺真也さんと大学の外であって少し立ち話をしたばかり。フルッサー教授の本を読み終わったら、飲みに誘いたい。

この記事を書いた人

シンヤB

アーティスト、教育者、ドラマトゥルク。詳しくは、プロフィールをご覧ください。