村本博之さんを偲ぶ会 外国人記者クラブ 12.23.2010

(この文章を探しにくくなってきたのでFacebookのノートから転写した)

2010年12月23日に外国人記者クラブにて行われた、村本博之さんを偲ぶ会にて、幹事グループから依頼され、お話しをさせていただきました。その時の原稿を、こここに掲載させていただきます。

この原稿を執筆中に相談にのっていただいた、俣野ゆき子さん、渡辺純子さん、節田さんに、この場を借りてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

村本博之さんを偲ぶ会
外国人記者クラブ
12.23.2010

テンプル大学アート学科、
渡部真也でございます。

友人代表として、
お話しをさせていただきます。

こういった会で、
「幸運にも」という言葉を使うことが良いのか分かりませんが。

私は、幸運にも、
大切な人生の瞬間、時間を、
ヒロと体験することが出来たのだと思っています。

縁が、あったのでしょうね。

今日、こうして、
皆さんにお話しさせていただけることにも、
縁を感じています。

ヒロを失った後、
私は体調を崩していました。

検査を受けたり、
カウンセラーの先生にお世話になっていました。

先生からは、

あなたの体は健康だが、
心は、自分の半分を失ってしまったと
感じているようだ、

と言われました。

皆さんの中にも、
同じように感じていらっしゃる方が
いるかもしれませんね。

これから、私達の半分であった、
村本ヒロさんのお話しをしたいと思います。

ヒロとは、
テンプル大学ジャパンキャパス、

日本にある、
アメリカの大学で出会いました。

1987年のことです。
私たちは、4期生にあたります。

現在のテンプル大学ジャパンキャンパスは、
1000人以上の学生が勉強していますが、

私たちの時代は、
200人ぐらいの小さな学校でした。

大学で、最初に出来た友達の一人がヒロです。

ヒロは出会った頃から、
カメラをいつも持ち歩いていました。

私たちは、
何か面白いことがないかと探し合う仲間で、

バイク、カメラ、ジャズなど、
とにかく理由を見つけては騒いでいました。

ヒロは、仲間と集まるのがとても好でした。

少し遅れて飲み屋にやってきて
スライストマトと、ひややっこをたのむのが、
彼のスタイルでした。

人の家に来ても、
「ねえ、トマトある?」と、
最初にききます。

買い出しに行くと、
ヒロの為に、まずトマトを買う習慣が出来たぐらいです。

私の冷蔵庫には、
いまだに、トマトがいつも冷えています。

テンプル大学には、
同じ年頃のバイリンガルの仲間が沢山いて、

みんなで、恵比寿のクラブを貸し切って、
クリスマスパーティをしたこともあります。
300人の友達が来てくれました。

ヒロが、私たち仲間、みんなと、
大きく違っていた点もあります。

ヒロは女の子にとても人気があったのです。

ヒロは、背が高くて、
当時は、モデルのようにとてもスリムで、
ナイスなスマイル、
気さくな性格とやさしさを持ち合わせた彼は、
大学中の女性から、ラブコールをいつも浴びていました。

ヒロは、自分では分からないと
いつも言っていましたが。

ヒロがリーダーとなり、
仲間、みんなで、
大学のイヤーブックを作りました。

ヒロのおかげで、このイヤーブックは、
私達の大切な宝物になっています。

これが、そのイヤーブックです。
撮影担当はヒロでした。

これが、ヒロの最初の仕事だと思います。

大学生活が、そろそろ終わりかけていた頃、
ヒロと私は同じバイトをはじめました。

米国NBC Newsのナイトスタッフ
というバイトです。

ココ、外国人記者クラブに、
ちょうど、いまぐらいの時間に来て、
書類などをピックアップし、支局に向かい。

新聞を全部読んで、
ワイヤーを全部読んで、
日本のテレビのニュースを全部見て、
ログを作り、
事件が起こると家に帰れなくなるという、
大変にやっかいなバイトでした。

同じ仕事をしていた
先輩がみんな就職してしまったため、

ヒロと私の二人だけで
ナイトスタッフをしていました。

ワイヤーのやたらでかい音、
ボケベル、ピンク色の出前メニューのファイルなど、
懐かしく思い出せます。

そして、デスクワークをしているヒロは、
少し退屈そうでした。

しばらくして、
ヒロはクリスチャンサイエンスモニターに、
カメラアシスタントとして就職し、
私は、3時から11時勤務のスタッフとして、
NBCにて、そのまま働くことになりました。

私は、しばらく働いた後、
アメリカに留学しました。
その間は、ヒロとはあまり連絡をとっていなかったのですが。

卒業して、日本に帰ってきて、私が働くことになったのが、
ロイター通信社でした。

まず、テレビ部に行くと、グレッグ・バイチマンがいました。
彼も入社したばかりでした。

少ししたら、偶然にも、
ヒロがカメラマンとしてやってきました。

私達、3人は、年齢も近かったし
そろって新人社員ということもあり、
チームとして一緒に仕事をしていました。

そして、ヒロとグレッグと私とで、
ドキュメンタリーを作る機会があり、
原爆についてのドキュメンタリーを
広島まで行き、1週間かけて取材をしました。

この取材では、
いろいろなエピソードがあるのですが、
一番、記憶に残っているのは
原水爆被害者団体協議会の、
坪井さんにインタビューをしていた時のことです。

インタビュー中に、ヒロとグレッグが、
坪井さんと奥様との人生の話しに感動してしまい、
泣き始め、取材が出来なくなってしまったんです。

ヒロが、「泣くなよ、グレッグ、
俺だって我慢してたんだから、
お前が泣くから、俺も泣いちゃっただろう」と言って。

ヒロとグレッグは二人で小学生のように泣いて、
坪井さんに、なぐさめられ、
次の日に、改めてインタビューを
させてもらうことになりました。

それにしても、現場で泣き出すなんて、、、
ヒロらしいエピソードだと思っています。

このドキュメンタリーは、
通信社らしくないと、
ロンドン本社からは怒られましたが、
グレッグのナレーションつきで配信され、
世界中のテレビ局で放送していただと聞いています。

荒削りな作品でしたが、
私にとっても、愛着のある作品です。

ヒロにとっても、
自分で撮影のほとんどを行った、
最初のドキュメンタリーだったと思います。

その後、グレッグは転勤し、
今は、ロンドン本社で働いています。

私はアメリカの大学院へ進学し、
今は、母校で教えています。

そして、その後の、
カメラマンとしての、
ヒロの活躍は、
ここにいらっしゃる皆さんの方が、よくご存知ですよね。

ヒロは子供が生まれた時にも電話をくれました。

お父さんになっちゃったよ、
と本当に嬉しそうに、
子供の話しをしてくれました。

その時、
私は大学で教えはじめた頃で、

「お前が先生で、
俺がお父さんかよ、
俺たちで大丈夫なのか?」と、

同じ時期に人を育てる立場になったことを
いつものヒロらしく話してくれました。

その後の娘さんたちの成長を見ると、
ヒロのお父さんは、ちゃんと出来ていましたね。

不思議です。
何故、縁というものがあるのか。

そして、
思い出というものは、
いったい何に使えばいいのでしょうね。

縁というものは、何なんでしょう。

どうして、このような偶然が起こりえるのか、
私にも分からないのですが、、、

ヒロの悲劇のニュースが届いた日、
4月11日は、私の父親の命日でした。

私の父親も仕事場で倒れて命を落としました。

私の父親の時も
会社や、現場の判断は正しかったのか?と、
いろいろな方から、話しをされましたが、

あの時、違う可能性があったかもしれないと
何度も考えさせられるのは、
とても辛いことでした。

それいらい、
死というものは運命なんだと
思うようにしています。

父親は、
ここでの人生を終わらせる時間が来たので、
次の人生に旅立って行ったのです。

家族にとっては、
どうやって前に進んでいくかということが重要で、
そして、それはけして簡単なことではありません。

ヒロの家族の気持ちを思うと、
自分の体験も思い出すことになり
とても大変ですが、

そういう経験があるからこそ、
親友達と何かご家族の為に出来ることがあれば、
出来るだけ努力をしていこうと思っています。

天国にいるヒロへ、

ヒロ、いろいろいままでありがとう。
安らかに眠ってください。
また次の人生で会いましょう。

そして、
会場にいらっしゃる村本博之を、
いままで支えていただいた皆様。

友人代表として、
村本博之に代わり、
皆様に、御礼申し上げます。

大変お世話になりました。
ありがとうございました。

これにて挨拶とさせていただきます。

ありがとうございました。

この記事を書いた人

シンヤB

アーティスト、教育者、ドラマトゥルク。詳しくは、プロフィールをご覧ください。