いろいろなことが少しづつ次のフェーズに向かっていて、今日は「よーい、どん」な感じの日となった。三月はまだ助走期間なのだろうが、四月からは全速力になりそうだ。楽しみである。
普段から仕事上たくさん文章を書いているけど、今日からは、さらに落ち着いて、そして改まって書くことになる。こうやってコンピュータに向かい文字を入力していると、周りが静かになってきて、厳粛な気持ちになってくる。このような時間が自分に訪れたことに感謝したい。
さて、書こうとしているものは、一つではないのだが、どれから始めるかを考えていた。
写真についての本の草稿を19日までに仕上げないとならない。姫野さんからいただいている宿題は後二つ。「白黒写真の存在意味」「写真に映り込む無意識とは何であるか」。
今週の火曜日の午後7時から、アドビの写真講座があって、お題目は「デジタル白黒写真のバイブル」。私の頭に入っているデジタル白黒の情報を90分話し続けるという企画。この中で「白黒写真の存在意味」も話すので、それを文章に起こせば良いのだろうと考えている。
「写真に映り込む無意識」は書き始めたので、そこからピックアップすれば着陸するのではないかと思う。無意識について書けそうになってきたのは、私の中で、心、マインド、メンタル、意識、無意識、潜在意識、表面 (顕在) 意識、瞑想などの関係がふに落ちるようになってきたからかもしれない。
スティーブン・ショアさんは「写真の本質」という本の中で、「物理的」「描画的」「精神的」「精神構造」と章立てて写真の本質を説明しているが、これは、「容器」「顕在的」「潜在的」「意識 (瞑想)」と置き換えれば、自分の言葉で、私にとっての写真の本質を書けるのではないかと考えるようになった。ショアさんの本に出会って24年経つが、ぜんたいを理解するまでに時間がかかった。彼が書く「精神構造」の章に私が傾倒してしまい他の章が疎かになってしまったからと思われる。
他の章については読んだときに「それは知っている」と思ったから「精神構造」に傾倒してしまったが、しかし他の章についても知ってはいたが、それはじつはまったく分かっていなかったことと同じだったと、いまさらながら気づいたわけなのである。どういうことかと言うと、そこに書いてあることは理解したが、何故に彼がそれをそこに書いたか分からなかったわけだ。これは、そのまま「描画的」「精神的」の構造と同じなのだから気づけてよかったが、しかし時間がかかった。ショアさんは「写真の本質」を51歳で出版したので。いまの私の年齢とそんなに離れていないから。時間がかかることだったと考えるようにしたいと思う。
次に書き始める (たぶん並行的に始める) のは、日本の大学とアメリカの大学の制度と文化の違いについて。昨年に、近い先生方と、グローバル学術研究会というのを始めて、幹事を努めている。これまでに5回会合が開かれいろいろと理解が深まった、そして、どちらの制度と文化が良い悪いということではなく、違いを認識できると何をしていけるかが頭の中で具体的になってきたので、書き出しておきたいと思っている。大学の認可 (認定) プロセスが形作る教育文化について、私が何かを語れる日がくるとはという気持ちだが、そういう意味合いのことをしていかなければならない位置に立っているようだ。
来年から本格的に日本の大学とアメリカの大学の合同授業を受け持っことになり、その準備のためにも書き始めている。シラバスも書いてあるし、下調べも終わっているので、授業の準備として文章を書いるのだが、これも楽しみだ。内容だが、以前から授業をしたいと思っていたアジア研究・一般教養の枠のなかで「写真」の授業をする。「写真の理論と実践:日米の写真文化について」というタイトルをつけてみた。前期と後期と同じ授業を二回受け持つが、前期は日本語、後期は英語で教えることにした。学生が言語を選べるようにしてみたのだ。これもどんな結果になるのか楽しみだ。
さて、「位置について、用意」。