Human Baltic 展:写真に潜むダブル・スピーク(二重表現)パネルディスカッションの感想ノート

@shiology

「Human Baltic われら バルトに生きて」展のエッセイを執筆をした関係でパネルディスカッション「写真に潜むダブル・スピーク(二重表現)」に登壇したので、忘れる前に感想をブログに書いておくことにした。イベントの翌日と翌々日に書いたのだが、そんな少しの間でも感想も記憶もずれてきている。録音しておけばよかった。このブログは、自分が言ったことに関係する事柄でまとめてある。

写真に潜むダブル・スピーク(二重表現)–「Human Baltic われら バルトに生きて」展より

バルト諸国のヒューマニズム写真と戦後日本との社会文化的類似点に関するディスカッションにぜひご参加ください。両地域の写真家たちが、芸術的表現と痛烈な社会的批評を融合させながら、日常生活のエッセンスをどのようにレンズで捉えたかを探ります。キュレーターは、両地域がいかに独自の歴史的変容を遂げたかを写真という普遍的な言語を通して明らかにし、バルト諸国と日本の知られざる物語を紐解きます。

登壇者:

  • アグネ・ナルシーテ博士、メイン・キュレーター、芸術批評家(リトアニア)
  • シンヤB、テンプル大学上級准教授(日本)
  • トーマス・ヤルヴェト、キュレーター、映像作家、映像人類学者、Juhan Kuus Documentary Photo Centre共同設立者(エストニア)
  • イヴェタ・ガバリナ、教育者、キュレーター、アーティスト(ラトヴィア)

モデレーター:

  • セルゲイ・グリゴリェフ、プロジェクト発起人、クリエイティヴ・プロデューサー(リトアニア)

モデレーターのセルゲイさんの質問に答える形でトークは進んだ。内容は以下のようなトークをディレクションしていたと思われる。

  • バルト諸国と日本の写真の共通点
  • 60~90年代の時代背景と写真への影響
  • 写真の難しさ
  • 写真のポジティブな面はあるか
  • 未来へ向けての考察

バルト諸国と日本の写真の共通点

まず最初に「バルト諸国と日本の写真の共通点はあるか? Yes/Noで答えて」と質問が出ると、なぜか私に最初のマイクが回ってきた。バルト諸国の写真については細かいところまで理解できていないと思っているので、口火を切るために、今日話したいと思っていた、二つのキーワードを話してみた。「Yes. 共通点はある。まずは、1. 『カメラ』が使われている(ここでみんなが笑ってくれたので、少し場が和んだ)、2. どちらの写真にも文化や時代を象徴するような『記号(Symbol)』が含まれているのが共通点でしょう。バルト諸国の写真を日本のオーディエンスが、どのような記号として読むのか興味があります。実は、日本のオーディエンスには読むのが難しい部分もあるのではないと思っている」と答えてみた。

バルト諸国のキュレイター達が語る共通点についての意見を聞いて、「森山大道」さんというのが、共通の話題になっていきそうだと感じた。

それと、私は意識していなかったのだが、バルト諸国の写真家はアンリ・カティエ=ブレッソンとロバート・フランクから影響を受けているので、これも日本の写真家との共通点になるのではないかとキュレーターから発言があった。

60年代のバルト諸国の写真家の特徴

  • カメラを持って外で道で撮影することが困難だった。当局(KGB)から疑われる可能性があった。
  • 写真を公共の場で発表することも困難だった。当局(KGB)から疑われる可能性があった。
  • 広義としては、社会主義的なフィクションの写真しか発表できない現状があった。
  • 実際に逮捕、投獄され、作品を没収された写真家もいる。没収された写真はいまだにソビエトのどこかでアーカイブされているはずとのこと。
  • 写真活動をするだけで弾圧される可能性があったが、しかし、写真でしか表現できないものがあった。

Human Baltic展は、上記の状況を伝えるための展覧会である。60年代が弾圧が最もきつく、70年代からだんだんと規制がゆるくなっていったことも背景になっていて、Human Baltic展の写真を理解する上で複雑な状況を作っている。

60~90年代の時代背景と写真への影響

感じていたことなのだが、バルト諸国の60, 70, 80, 90年代は、日本の、40, 50, 60, 70年代と比較すると分かりやすいのではないかと話してみた。日本の40年代は戦争から敗戦〜アメリカ占領下、そして冷戦の始まりであり、50年代は国の復興〜高度経済成長が始まり、60年代は「安保闘争」と「プラハの春〜ソ連によるチェコスロヴァキアへの軍事侵攻」、70年代にも「安保闘争」と「ベトナム戦争」の影響があっただろうと例を出して。バルト諸国の「写真クラブ」的な活動は、日本の「カメラ雑誌」と近いと言えるのではないか。アメリカとの複雑な関係、そして冷戦を通して、「写真は何のためにあるのか」という問いがどの写真家にもあったのではないかと話してみた。(この「バルト諸国の60, 70, 80, 90年代と、日本の40, 50, 60, 70年代」比較は、一度、時間を使って書き出してみたい)

写真活動の難しさ

ソ連の支配下にあった時代のバルト諸国の人々が、カメラを持つこと自体も規制されていたり、秘密警察に写真家が逮捕されたり作品が没収された話など、写真からは読み取れない、数々のエピソードが紹介された。チーフ・キュレーターのアグネ・ナルシーテさんは、展示されているテキストも読みながら作品を鑑賞してほしいと語った。

「難しさ」は、最近の写真家の話にも繋がり、肖像権に関わるイシューなど、ストリートで人間を撮影するのがだんだんと難しくなっている、という話も議論された。

写真活動のハッピーな部分

写真に関わる「暗い」話ばかりになってきているが、ポジティブ、ハッピーな例も話せないだろうかとモデレーターから提案がある。

この問いは、最近、エストニアの首相が、「ソビエト支配下だったが、私の子供時代の記憶はハッピーだった」と発言したことがメディアなどで議論になったとのこと。政治的には、ソビエト支配下時代は幸せであってはならないという一面があり、首相としては、子供時代であってもハッピーに過ごしたと発言するのはいかがなものかと誌面を賑わせたようだ。しかし、どのキュレーターも、写真家達は大変だったと思うけど、私たちだって子供時代はハッピーに過ごしましたよ、親に感謝していますと発言し、会場が盛り上がる場面があった。

このハッピーな話の文脈の中で、私は、実は、最近、写真にとって何がハッピーなのか分からないんだ、と発言してみた。たとえば、スマートフォン、いまの時代、スマフォを持っていたら、きっと写真を撮るよね。写真を見せたい人はInstagramをするよね。デジタルになって薬品を使わないで写真が作れるから環境には優しくなった。でも、どこかでハッピーじゃない感じがある。簡単、楽、優しくなったために、何だかいろんなものが無くなってしまったのかもしれない。

未来へ向けての考察

「Human Baltic」展が日本で開催されるのは、バルト諸国と日本の文化交流としては、とても良い場になったと考える。こういう機会がないとバルト諸国について考えたり、新い情報を得たりすることがない。私も、この3ヶ月、バルト諸国の写真家の作品に触れる機会を多くいただき、少しづつだがバルト諸国の写真の理解が進んでいる。せっかく素晴らしいキュレーターと知り合えたので、カメラを持ってバルト諸国を訪ねてみようと計画中だ。

写真は塩澤さん。いつも素晴らしい写真をありがとうございます!

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この記事を書いた人

シンヤB

アーティスト、教育者、ドラマトゥルク。詳しくは、プロフィールをご覧ください。