《リフレクション》

20250927 / Interfusion, John Taylor Sextet

2時間 翻訳の作業をしてから撮影に出かける いま訳している写真史の論考なのだが 長い歴史が 短くまとめられているので セクションごとに モードというか意識の切り替えが必要となっている いま 結論前の 最後の15行なのだが ここまできて やっと だから訳すのが大変だったのか などと気づく キミさんには心配されるかもしれないが だいたい全貌がわかったので 最初からチェックしたいこうと思う 明日には終わらせたい

アメリカの大学から、京都で「大人」に向けて講座を5月に二週間でお願いしたら、どんな講座になるかとメールがあったので、ここのところ書いたり考えたりしていた そろそろ 送らないとまずいかもしれないので まとめてみた というか ふと これなら面白いかもというのが思いついたのだ

『Seeing Impermanence: Experiencing Mono no Aware through Image-Making』という講座なのだが 先日の 木漏れ日の体験が腑に落ちたんだろうと思う 以前から というか ロバート・フランクのレクチャーを Purple でしたあたりから 写真に関することは もののあわれ でだいたいのものが説明できるのかもしれないと思うようになり それが 木漏れ日の体験で深まった と考えている

なんで こんな長い出だしかというと 上のことを考えて 撮影にいったからである

何日も撮影日があくと、前回の撮影が上手く思い出せない

外に出ると いつもとは逆の方向に行きたくなる そこには 小さい水たまりがあった 白い床の上である 白に白というインプレッションで撮影することにした

少し歩くと また 水たまりがあった こちらも撮影した

なんでリフレクション(反射)なのか 分からなかったが 気にせず歩き続けた

少し大きい道いでると 水たまりはなかった

しばらく進むと 小さい道に 水たまりがあるのが見える

そこに 歩いて行き 撮影する その先にもあったので撮影 あんがい 4枚は早かった

さらに細い道を歩いていくと 木製の玄関のドア いかにも京都の家にありそうなものがあり そこに木の葉の影があったので撮影しようかと思うが 京都を思い出したので

ピントを合わせているうちに 太陽が雲で隠れてしまい 影が出なくなってしまった

あきらめて 少し歩くと 大きく自分が反射しているものを見つけた 撮影する

この記事を書いた人

シンヤB

アーティスト、教育者、ドラマトゥルク。詳しくは、プロフィールをご覧ください。