
朝といっても 9 AMぐらいに 気分転換も込めて カメラを持って出かける
いつものように同じ方向へ歩き始める 理由を考えたが この方向にお寺や神社があるからではないかと思うようになった 私はお参りに行きたいのかもしれない
緑道を歩いていくと 隣の駅に着く 隣の駅といっても 5分ぐらいしかかからない この駅にはピザ屋があり たまに食べにくる
駅の横を抜けると 前に神社が見えてくる この神社は 山梨の妻の実家近くの神社ににている 近所に住んでいたが ほとんどいったことがなかった 山梨の神社では 後々に遺影となる 義理の父の写真を撮影したこともあり お参りにいくことにした
神社に入ると 女性の写真家の方が子供の撮影をしていた
邪魔にならないように 静かに通り抜け 階段を登り ここはそれなりに急である
上につくと そこには 《木漏れ日》があった
昨日 翻訳していた部分に 木漏れ日が「写真に宿る感覚と精神性」としてでてきたのだが 訳すのが難しと感じていた 私の中には《木漏れ日》の感覚がないように感じたのだ
この神社は 木漏れ日の里のような場所で 木漏れ日に包まれているような感覚になる場所
さらに上に登ると 小さい二つの神社が敷設されていた この二つの神社が この場所を精神的に特別な場所にしているように思える
お参りして 写真を撮った
そして さらに上にいくと裏の出口があった
そこを出ると そこは 先日 ポリーヌさんを送っていった場所であった
その道は 木漏れ日で溢れていた
横断歩道で 木漏れ日の写真を撮った
少し歩くと 自分が木漏れ日につつまれたので 撮影した
家に戻り 木漏れ日の部分を訳し直すことにする
高校からアメリカで育った私は まずはカルフォルニアに住んでいて 「光」といえば、どちらかというと強烈で 真昼の砂漠をぎらぎらと照らすもの 目を細めさせるものという印象が強くあった
木の下にいても それはただ 日陰か そうでないか という区別で 光が木々を通りぬける様子に特別な意味を見いだしたことはありませんでした カルフォルニアの後は ワシントン州に住みましたが 同じでした
「木漏れ日」の意味を考え 今朝の神社での体験をかんがえる
木の葉のすきまからこぼれる光のことを 一語で表現する
ポリーヌさんの論考にはふれられていないが
英語には「木漏れ日」と対になる言葉がない
たしかに 木漏れ日には やさしさや静けさがある
直射日光のように圧倒してこない
ふんわりと包み込んでくる
地面や空気 そして自分自身までも柔らかく照らし
時間が ゆっくり流れるような感覚になっていく
木漏れ日は「光」ではなく
心の状態を表しているのだろう
葉の揺れとともに絶えず形を変えるそのさまは
もののあわれである
何かを強く求めるのではなく
ただそっと寄り添い 安心させてくれる
自然のなかに こんなにも穏やかで癒しの力を持つ瞬間があるのだと教えてくれるようだ
そして ここまで書いて これが論考の中に流れる考えなのだと気づく
I’m So Happy You Are Here
