日記を書こうと思っているわけではないが、書き出してみる。今日は金曜日である。
火曜日に、文章だけになり、昼休みに続きをと書いたが、その後、木曜(昨日)に撮影に行き、写真の現像はできたが、そこまでだった。ちょっと整理してみる。
- FF1 (0914) 日曜 撮影できた。日曜日は授業がないので可能。
- FF2 (0915) 月曜 撮影できた。祝日だったの、授業がなかった。
- FF3 (0916) 火曜 撮影できない。火曜日は、8:40から授業なので、できなかったのだろう。
- FF3B (0917) 水曜 撮影できない。水曜日も、9:00から授業なので、できなかったのだろう。
- FF4 (0918) 木曜 撮影できた。木曜日は、12:00から授業なので、時間の余裕が少しできた。
- FF5 (0919) 金曜 今日。
なるほど、こう書いてみると。8:40、9:00から授業があるときは、撮影できてない。あたりまえといえばあたりまえなのかも。しかし、5枚の写真も撮影できない生活だとは。しかししかし、この意識が取り込めれば、5枚はできるようになるかもしれない。撮影するということが心のバランスに繋がっていることは事実なので、続けるだろう。自分の写真を作り始めてから、翻訳作業の方も上手くいっている気がする。
翻訳の作業と課題の採点をしたいので、手短にメモを書きたい。
中平さんのエッセイ「なぜ、植物図鑑か」を取り寄せて、読み始めた。28ページの3章から成り立っているエッセイである。一回、読んで、今、二回目なのだが。「ポエジー(詩)」「イメージ」に対しての言及から始まる。「ポエジーやイメージにしがみつくこと、それ自体を否定していかなくてはならい」(中平 卓馬『なぜ、植物図鑑か――中平卓馬映像評論集』ちくま学芸文庫, 2007年, p. 10〔初版1973年〕)と、彼は書く。
ポエジーにしがみつかない。イメージにしがみつかない。という感覚は、よく理解できる。私がここのところ考えることに近い。
もう一つ、「世界」という言葉が、このエッセイにはでてくる。読んでいて、「世界」とはなんだろうかと思うようになった。中平さんも説明もなく簡単に使っているが、「世界」とはなんであるかを考えていくと、もう少し状況が整理される気がする。
中平さんは、こう続ける。「一体我々が<詩>と呼び慣わしているものとは何なのか? それはひょっとして、世界と私をつなぐ<イメージ>と同義なのではないだろうか? この<イメージ>という言葉ぐらい幅広くしかも実にあいまいな形で使われる言葉も少ないと言えよう。」(中平 卓馬『なぜ、植物図鑑か――中平卓馬映像評論集』ちくま学芸文庫, 2007年, p. 12〔初版1973年〕)
そして、同じく、<世界>という言葉も<私>という言葉もあいまいに使われている言葉と言えるのではないか。
<詩><イメージ><世界><私>について、金曜の朝五時に考えた。
課題の採点をしてから、翻訳の作業に戻ることにする。
- 今日は、大阪に作品を発送しないとならない。これは何時でも大丈夫。
- 土曜は、静香さんのアユルベーダの教室がある、午後3時から
- 日曜は、牛腸茂雄さんの会がある、こちらも午後3時から
マサルさんと、水曜日に会うことができて。いま翻訳しているものの一つのゴールができた。私が、この2ヶ月ほど必要としていた目標のようなものである。目標が決まったので、そこまで最短に行きたい。
参考文献
中平 卓馬. 『なぜ、植物図鑑か――中平卓馬映像評論集』. ちくま学芸文庫, 2007年. (初版は1973年刊行).
